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福島地方裁判所 昭和38年(ワ)50号 判決 1964年5月15日

原告 紺野蝶子

被告 中条秀夫 外一名

主文

被告等は原告に対し、各自金五八、一五〇円及びこれに対する昭和三八年四月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

原告のその余の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告等の連帯負担とし、その余を原告の負担とする。

この判決は、原告において被告等に対する共同担保として金一五、〇〇〇円を供託するときは、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、「被告等は原告に対し、各自金七〇九、一五〇円及びこれに対する昭和三八年四月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告等の連帯負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求原因として、

一、原告は昭和三七年五月一八日午前〇時五〇分頃、東京都墨田区江東橋三番地ならびに八番地先のほゞ南北に走る道路上を西から東に向つて横断中、道路を南から北に向け進行して来た被告中条の運転する被告会社所有の乗用自動車(五-を一五一六号)の車体の一部を顔面部に接触衝突されて該道路上に転倒し、前顎部をもぎとられ、頭部を強打し意識を喪失する等の重傷を負つた。

二、右事故は、被告中条の過失により生じたものである。すなわち、同被告は自動車運転者として前方を注視し、歩行者の安全を確認して事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、時刻が午前〇時五〇分頃の人通通りのまばらな頃であつたため、これを怠り、前方を注視せず、該道路を横断中の原告に気付かずに漫然時速五〇粁の速度で進行したため本件事故を発生せしめたものである。従つて、被告中条は、右事故により原告が蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

三、被告会社は、自動車による旅客運送を業とするものであるところ、右事故は、被告会社が被告中条をして、被告会社所有の前記乗用自動車により被告会社のため旅客運送をなさしめていた際に発生した事故であるから、被告会社は自己のため該自動車を運行の用に供していたものとして、右事故により原告が蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

四、ところで、原告は、右受傷のため次のとおり財産上の損害を蒙つた。

(一)  右事故により欠損した歯三本の治療に要する費用金二〇、〇〇〇円、

(二)  昭和三七年七月二六日から同年八月四日までの間の福島県立医科大学付属病院の入院料金八、一五〇円、

(三)  原告は、本件事故当時、二〇年の健康な女子であつて、昭和三七年三月二五日から東京都江戸川区新小岩所在新小岩トルコセンターにトルコガールとして勤務し、一日平均金七、〇〇〇円の収入を得ていたが、本件事故により同年五月一八日から同年八月八日までの八三日間稼動できず、そのために喪失した右期間中の得べかりし利益金五八一、〇〇〇円、

五、原告は前記のとおり本件事故発生まで健康な女子として平穏な生活を営んでいたものであるが、本件事故により女子の生命ともいうべき顔面部に重傷を受けたばかりでなく、受傷後直ちに事故現場付近の辻本病院に入院し、同年五月一八日一応軽快して退院したが、前記頭部強打により時々癲癇を起し、かつ頭痛眩暈を伴うため同年七月二六日から同年八月四日までの間福島県立医科大学付属病院に入院して加療を受けたけれども、未だ時折頭痛眩暈を呈し、不安感を伴う等未だ完全に治癒するに至らず、そのため精神上甚大な苦痛衝撃を受けた。しかして右精神上の苦痛衝撃は金一〇〇、〇〇〇円をもつて慰藉さるべきである。

六、よつて、原告は被告両名に対し、右財産上及び精神上の損害合計金七〇九、一五〇円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和三八年四月一四日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

と述べ、

被告等の反対主張及び抗弁に対し、

一、反対主張一の事実のうち、原告が被告中条の運転する自動車右側前柱側面に衝突し、被告等主張の傷害を受け路上に転倒したことは認めるが、被告中条が、原告等を発見した地点、同被告の認識及び判断は不知、その余の事実は否認する。

二、反対主張二の事実は否認する。

三、反対主張三の事実のうち、被告等が原告の辻本病院における治療費、入院料、看護費金二七、五三五円を支払つたこと及び原告が昭和三七年六月七日被告会社より金一〇、〇〇〇円を受け取つたことは認める。但し、右金一〇、〇〇〇円は示談金ではなく帰郷旅費として受け取つたものである。その余の事実はすべて否認する。

と述べ、

再抗弁として、仮りに被告等主張の示談契約が有効に成立し、右示談契約により被告等が免責を受けたとしても、原告は右示談契約後、本件事故による頭部外傷後遺症により、本件事故以前には見られなかつた癲癇類似の発作を毎月一、二回起し、今なお頭痛眩暈をうつたえ、そのため労働不能となり、引きつゞき父の住居において静養中であつて、甚しく事情が変更し、右示談契約は著しく信義衡平の原則に反するものであるから原告は事情変更の原則により昭和三九年四月七日午後一時の本件口頭弁論期日において右示談契約解除の意思表示をなす。従つてこれにより右示談契約は失効したから、右示談契約による免責の抗弁は理由がない。

と述べた。

立証<省略>

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、

一、請求原因一の事実のうち、原告の前顎部をもぎとつたとの点及び原告が意識を喪失したとの点は否認、その余の事実は認める。

二、同二の事実のうち、本件事故時刻が午前〇時五〇分頃の人通りのまばらな時間であつたことは認めるが、被告中条が前方を注視せず、道路を横断中の原告に気付かず、時速五〇粁の速度で進行したとの点は否認、本件事故が被告中条の過失によるとの主張は争う。

三、同三の事実のうち、被告会社に本件事故による損害賠償義務があるとの主張は争うが、その余の事実は認める。

四、同四の事実のうち、(一)の事実は認める。(二)の事実は不知、(三)の事実のうち、原告の職業及び収入の点は否認、その余の事実は争う。

五、同五の事実はすべて争う。

と述べ、反対主張及び抗弁として、

一、本件事故につき被告中条に過失はなく、本件事故は原告の重大な過失によつて発生したものである。

被告中条は、時速約四〇粁の速度で進行中、本件事故発生現場の約一五〇米手前で、前方道路中央の都電軌道上に佇立し、北方を見乍ら立話中の二女性(その一人が原告)を認めたのであるが、同女等が被告中条の進行方向の右側(東側)に向つて居り、かつ歩行する気配が見えないので同女等の後方を通過すべくそのまゝ進行したところ、同女等の約一六、七米手前に接近した際、突如原告が一人左廻りをして西側歩道に向つて馳出したため、被告中条は急ブレーキをかけても原告に激突する虞があり、馳出した原告の前方を通過する外はないと突嗟に判断し、警笛を鳴らし、制動しつゝ車体を西側歩道に寄せて運転したが間に合わず、原告は被告中条の運転する自動車の右側前柱側面に衝突し、上下唇顎部割創、打撲の傷害を負い、路上に転倒した。しかし、被告中条は自動車運転者として課せられた注意義務は勿論、法令の規定に遵拠し、いささかもこれに違背して居らず、本件事故は原告が酩酊して歩行者として守るべき注意を怠り、突然自動車の進行方向に逆方向から飛び出し接触した結果であつて、原告の過失に起因する。従つて被告中条には何等の責任がない。

二、また、被告会社は、被告中条を運転者として使用するに際し、同人が昭和二七年八月二三日運転免許の交付を受け、自動車運転者として満六年の経験を有し、その間無事故で運転者として欠点のないことを充分調査の上、昭和三三年一〇月二〇日これを採用したのであつて、採用後も本件事故以外には些小の事故も起して居らず、被告会社としては運転者の監督についても、毎朝就業前、運転者全員に対し、運転者の戒心すべき事項及び監督官庁の指示事項その他を示達説明する等、事故防止に万全を期すると共に、車輛の整備、検査を厳密に実行して居り、本件事故の車輛は構造、機能上は勿論、整備その他についても何等の欠陥はなかつた。従つて、被告会社が本件事故につき責を負うべき理由はない。

三、(一) 仮りに被告両名に右事故による損害賠償の責任があるとしても被告両名は昭和三七年六月七日東京都江東区毛利町の原告の当時の居所において、原告との間に、被告会社において原告の辻本病院における治療費、入院料、看護費金二七、五三五円、原告の三本の歯の技工義歯料並びに治療費金二〇、〇〇〇円を負担し、かつ示談金三五、〇〇〇円を支払う条件の下に原告との間に示談を結び、被告会社は、

(1)  右辻本病院における治療費、入院費等合計金二七、五三五円を昭和三七年五月二五日及び同年六月一日の二回に辻本病院に、

(2)  右歯の治療費等金二〇、〇〇〇円を同月一三日佐藤歯科医院に、

(3)  右示談金三五、〇〇〇円を同月七日及び同月一三日の二回に原告に、

それぞれ支払つてその債務を履行し、原告より免責されているから原告の請求は失当である。

(二) 仮りに、同月七日の右示談契約の成立が認められないとしても同月一三日被告両名は福島市飯坂町所在、福島交通飯坂温泉駅前において、原告の代理人である原告の父紺野政二との間に前同旨の示談を結び、前同様その履行を完了し免責を受けているからいずれにしても原告の請求は失当である。

と述べ、原告の再抗弁事実を否認した。

立証<省略>

理由

一、原告が昭和三七年五月一八日午前〇時五〇分頃、東京都墨田区江東橋三番地ならびに八番地先のほゞ南北に走る道路上を西から東に向つて横断中、右道路を南から北に向け進行して来た被告中条の運転する被告会社所有の乗用自動車(五-を一五一六号)の車体の一部を顔面部に接触衝突されて該道路上に転倒し、上下唇顎部割創、打撲等の傷害を負つたことは当事者間に争いがない。

二、原告は、本件事故は被告中条の過失によつて発生したと主張するのに対し、被告等は専ら原告の過失に起因し、被告中条に過失はないと抗争するので検討する。

(1)  検証の結果によると、本件事故現場は南北に直線状に走る巾員約二三米の舗装された車道上であつて、該車道の中央やゝ東よりに都電の軌道が敷設され、その軌道敷が巾員約五・五米の石畳になつている外は格別交通の妨げとなるものもなく、見通しは極めて良好であり、路面も平坦であること、更に右車道の両側には巾員約三米ないし五米の歩道があり、該歩道には車道に近接した部分に約一〇米ないし一二米間隔に街燈が設置され、更に右歩道に設けられたアーケードには約二、四米間隔に棒状螢光燈が付設されていることが認められる。

(2)  そして、検証の結果と証人渡辺妙子の証言(後記措信しない部分を除く)、及び被告中条の本人尋問の結果を総合すると、本件事故当時本件事故現場は右車道の西端にタクシーが数台ほゞ一列に駐車していた外は人通りも車馬の往来も殆んどなく、照明は前記各街燈及び歩道わきの商店等の照明によつて充分であり、従つて、見通しは良好であつたこと、原告は西側歩道から東側歩道に赴くべく、訴外渡辺妙子と連れ立つて右車道をほゞ一直線に横断し、前記都電軌道上において立ち止つていたのであるが、その際、被告中条は時速約四〇粁の速度で前記自動車を運転し右車道の中央部附近を北進して右現場附近に至り、原告等が右軌道上に佇立しているのを、約八〇米手前で発見したが、原告が東側に面して停止して居るので、そのまゝ直進しても原告等の二、三米後方を通過し得るものと判断し、減速することなく直進したところ、原告等の約三、四米手前まで進行した際、原告が突如北西部に向つて斜めに馳け出し、進行方向の前方に飛び出して来たので、衝突の危険を感じ、これを避けるため、突嗟に警笛を鳴らし、ブレーキかけ、ハンドルを左に切つたが既に間に合わず、該車輛の方向を僅かに左に向きかえたのみでその右側前柱側面を原告に接触衝突させ、原告に対し前記傷害を加えるに至つたことが認められ、渡辺妙子の証言及び原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(3)  以上認定の事実からすれば、原告の不注意もさることながら、被告中条の過失を否定することはできない。すなわち、本件においては、被告中条は原告等が佇立しているのを認めた際、同女等の動向を充分注視し、場合によつては直ちに急停車又は方向転換が出来るよう減速徐行するか、或いは前記のとおり本件車道には車馬等の往来も殆んどなく、巾員も充分あるのであるから、同女等との間隔を充分に保つて進行する等、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるものというべく、本件事故発生については、右注意義務を怠り原告等が前記軌道上に停止して動かぬものと軽信し、減速その他避譲の措置をとることなく、漫然そのまゝの速度で直進した被告中条にも過失があるものといわざるを得ない。従つて、被告中条は原告の損害を賠償すべき義務がある。

三、しかして、被告会社が自動車による旅客運送を業とするものであり、本件事故は被告会社が被告中条をして被告会社所有の前記乗用自動車により被告会社のため旅客運送をなさしめていた際に発生した事故であることは当事者間に争いがなく、本件事故につき被告中条に過失のあることは前記認定のとおりであるから、被告主張の自動車損害賠償保障法第三条但書所定のその余の免責事由について判断するまでもなく、被告会社は自己のために自動車を運行の用に供するものとして、原告の損害を賠償すべき責を負うものといわねばならない。

四、次に、被告等は本件事故について原告との間に示談をなし、原告から免責を受けた旨主張するので按ずるに、証人内藤実(第一、二回)、同佐藤美雄、同紺野政二の各証言及び原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すると、

被告会社の営業課長内藤実は、被告会社所有自動車による事故について被告会社及び同会社の運転者のために、これが解決等善後処置をなすべき職務を負うものであるところ、本件事故については示談によつてこれが解決をみたいと考え、昭和三七年六月七日頃、東京都江東区毛利町の原告の当時の寄寓先において、原告に対し、本件事故による原告の治療費等を一切被告会社において負担し、かつ、金三五、〇〇〇円程度の金員を原告に支払うこととして示談により解決したい旨の意向を示したところ、原告も、これを応諾してもよいかのような口ぶりであつた。しかし右内藤は当時原告が一九才と称していたこともあつて原告とは正式に示談することなく、原告の父と正式に示談すべく、同月一二日原告をその実家のある福島市飯坂町まで送り届け、その際、原告に、翌一三日福島市飯坂町所在福島交通飯坂温泉駅前に原告の実父紺野政二を同道するよう依頼し、翌一三日右飯坂温泉駅前のバー「山」及び蕎麦屋「仙台屋」において原告が同伴したその実父紺野政二と原告同席の上面談し、その席上、右政二との間に、原告の本件事故による辻本病院の治療費、入院費、看護費等合計金二七、五三五円(当時既に被告会社において支払ずみ)を被告会社において負担する外、原告が本件事故によつて欠損した歯を原告の希望する医院で治療することとしてその費用を被告会社において負担し、かつ、原告の顔面創傷の整形手術料を含む示談金として金三五、〇〇〇円を支払う条件の下に円満に本件事故を解決することとして示談をなしたこと、原告は、その間同席していたがこれにつき何等異議を差しはさむことなく、前記歯を治療すべき医院として自ら同町所在の佐藤歯科医院を指定したこと、そこで右内藤は原告を同医院に同道して診察を受けさせ、同医院にその治療費の見積りを依頼し、原告が所用で帰宅した後、右飯坂温泉駅附近の「玉川屋」菓子店において右政二に対し、前記示談の内容を記載(但し、歯の治療費の金員欄、合計金員欄は、歯の治療費の見積が未だできていなかつたため、後に見積の金額を記載することとして空欄)した示談書三通を示して、これに夫々同人の署名押印を得て示談書三通(甲第七号証及び乙第一号証はうち二通)を作成し、その際、同人に対し、示談金として、先に原告の求めにより原告に交付してあつた金一五、〇〇〇円を差し引き、残金二〇、〇〇〇円を手交し、本件事故については、以後一切請求をなさないことを確認して別れたこと、なお、右内藤は同日右佐藤医院に赴き前記見積額を確認の上、前記示談書に見積額金二〇、〇〇〇円を補充記入し、同金員を同医院に原告の治療費として預託したこと、また、右政二は前記示談金の一部金二〇、〇〇〇円をその後原告に手交したこと、が認められ、前掲各証言及び本人尋問の結果中、右認定に反する部分は措信し難く、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

以上認定の事実によれば、被告等が昭和三七年六月七日東京都江東区毛利町の原告の当時の居所において原告と示談をなしたものとは認め難いけれども、同月一三日、右内藤がその職責上、被告会社及び被告中条の代理人として福島市飯坂町所在飯坂温泉駅前のバー「山」或いは蕎麦屋「仙台屋」において、原告の父政二との間に、被告等主張の如き条件の下に示談をなしたことは明らかであり、右政二が右示談をなすについて原告の委任を受けていたことは容易に推認することができるから、被告等と原告との間に本件事故について被告等主張の如き内容の示談が成立したものと認むべきである。しかして、右認定の示談成立の経過、内容に徴すれば、右示談は、以後、本件事故に関し、互に他に何等の請求をなさないことを前提とし、その了解の下に締結されたものと認められるから、被告等は、右示談の成立により、その余の損害賠償債務について原告から免責されたものというべきである。

五、ところで、原告は、右示談を事情変更の原則によつて解除する旨主張するので判断する。

成立に争いのない甲第一号証及び証人紺野政二の証言並びに原告本人尋問の結果によると、原告は、右示談成立後、本件事故による頭部外傷後胎症により頭痛眩暈をうつたえ、時には癲癇類似の発作を起すこともあつたので同年七月二六日福島県立医科大学付属病院に入院して加療を受け、同年八月四日退院したが、その後も時折前同様の症状を呈し、現在も完全に治癒するに至つていないことが認められ、右認定に反する証拠はない。

しかして、本件示談が事故発生後一ケ月をも経過しない短時日の間に締結されたこと等前記認定のその成立の経過、及び被告等において負担したのは、既に支払済であつた入院費、治療費等のほかは、当時欠損していた歯の治療費二〇、〇〇〇円と、顔面の傷痕の整形手術料を含む示談金三五、〇〇〇円に過ぎないこと等右示談の内容に徴すれば、本件示談は、その成立当時、原、被告とも、原告に前記認定の如き後遺症があり、それがため原告が再入院するに至るであろうこと等は予期せず、従つて、これらの点については何等の配慮もなさず、当時、原、被告に明らかであつた外傷等を基礎として締結したものと推認される(右推認を左右するに足る証拠はない。)のであつて、右示談によつて原告が免除した被告等の損害賠償義務は、右事実関係の下における損害についてのみであつて、その後新たに生ずるかも知れぬ不測の損害についてまでその賠償義務を免除(免除の予約)したものと認めることはできない。(尤も、前記認定によつて成立を認め得る甲第七号証及び乙第一号証(示談書)には、「今後、本件についてどんな事情が生じましても決して異議を申し立てない」旨の記載があるけれども、右記載は示談書に印刷されている不動文字であつて、特に、原、被告が、将来の不測の損害の発生を考慮し、かゝる損害についてその請求権を放棄(放棄の予約)し、或いはこれが債務を免除(免除の予約)する趣旨で記載したものとは認められないから、かゝる記載がある故をもつて、右認定を覆えすことはできない。)従つて、原告は、右示談成立後、新たに発生した前記頭部外傷後胎症に基く損害については、右示談の成立とは無関係に別途にこれを請求し得るものというべく、そうだとすれば、新たな事情が発生したからといつて、前記示談契約が信義衡平に反するに至るものとは認め難いから、事情変更の原則に基いて本件示談を解除する旨の原告の主張は理由がない。

六、そうすると、原告は、本件示談の基礎となつた事実関係に基く損害については、右示談により、これに定めるものの外は請求し得ず、右示談成立当時予測しなかつた新たに発生した損害についてのみこれを請求し得るものというべきである。よつて、原告主張の損害について順次検討する。

(1)  原告の歯の治療費について。

右歯の治療については、前記認定のとおり本件示談において、被告会社の負担の下に原告が前記佐藤歯科医院において治療を受けることとし、被告会社において既にこれを右医院に預託していることが認められるから、原告は右医院において治療を受ければよいのであつて、被告等にこれを請求することはできない。よつてこの請求は理由がない。

(2)  福島県立医科大学の入院料について。

証人紺野政二の証言により、原告が前記入院によつて右入院料金八、一五〇円を要したこと(うち金四、〇〇〇円のみ支払い、残金四、一五〇円は未払であるが、これは債務として残存するものである。)が認められるところ、右入院は前記認定のとおり、本件示談成立後新たに発生した不測の損害と認められるから、被告等において、賠償すべきものと認められる。

(3)  原告の喪失した得べかりし利益について。

原告が本件事故当時トルコガールとして勤務し、少くとも一日平均金五、〇〇〇円の収入があつた旨の原告本人尋問の結果は証人本間正夫及び証人内藤実(第一回)の証言に照らし措信し難く、他に原告主張の事実を認めるに足る証拠はないから、原告の右請求は認めるに由ないものである。

(4)  慰藉料について。

前示のとおり原告の請求し得る慰藉料は本件示談成立後に新たに発生した事情を基にしてその額を定むべく、前記認定の頭部外傷後胎症の症状、その入院加療の経過、治癒の程度に徴すれば、原告が右後胎症により精神上の苦痛を蒙つたであろうことは推察に難くなく、これらの事情を基礎として、本件事故当時の原、被告の過失の程度等諸般の事情を斟酌すれば、被告等が原告に対して支払うべき慰藉料の額は金五〇、〇〇〇円をもつて相当と考える。

七、よつて、原告の本訴請求は、被告等に対し金五八、一五〇円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日であることが当裁判所に顕著な昭和三八年四月一四日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において正当として認容し、その余は失当としてこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小野幹雄)

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